本多流七道 〜 会

〜会は持満なり〜


会とは仏語に申す会者定離といふ意味を取りまして竹林で附けました言葉で御座います。これは 前にも申して置きました通り、一字両様の意味が御座います。即ち前に申しました会の弦道といふ ときの会と、又引き来たりて収り所に至り目当物を狙ひ将に放さんとする現在の所も会と申します。 竹林では持つといふことを嫌いまして会と申します。仏語の会者定離即ち会ふものは離るる道理である。 一旦引き来たりては放れて元の姿に還るといふ意味を含ませたので御座います。会を普通抱いるとか、 持つとか申しますが、持つにては唯持って居る丈けの意味、抱いるも同様ではあるが、竹林でも抱いる といふことは申します。抱いるとは収まり所まで引き来たれば大事にせよといふ意味で御座います。 人より大事な物を預かったならば大切に抱い込んで落さず取られぬ様に大事にして居ることで、 引き収まれば耐えよと申すことで、物を抱いた心にて押さえよといふことで御座います。持つにては 説明が不十分の様に思はれます。竹林派では抱いといふ言葉は使ひますが、持つといふことは 嫌ひます。此会までが現在身で御座います。此現在身の形といふことを弓術にては規矩(かね) ともうしまして、規矩が正しく邪なことなく参らなければ障りが起こるもので御座います。 彼の人の臨終のときと、弓を将に放さんとするときとは甚だ能く似て居ります。心に邪念なく後に 思ひ残すことなく放れ行くことは恰も人が自然に眠るともなく往生を遂ぐる様なもので、所謂会者定離 の例ひの如く惜む所なく放れ行くべき筈であります。此方に補ひをなし又正しからざる行あれば 放れる所に障りを起こします。されば己を正しうして骨法(規矩)に違はない様にして置きますれば、 期節が来ると同時に自然立派に離れて参ります。即ち仏法にて成仏と申す所で弓では的に中ると 申すことで、中りは即ち成仏で御座います。此事は射法輯要と申す本にも御座います。そうなると 中たらぬ事は殆ど無いと申して宜しい位で御座います。されば現在身の規矩と申すことは弓を引き 張り居る所の大切の場合であります。そこで之れば矢一本を射るに当たって現在の大事な所で、 曲れる事の出来ぬ大事な所で御座います。

(此の外「雪の目付」「一分三界」「着己着界」「五部の詰」「八方詰」の伝あり。此処にては略す。)

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